武道の本質とは何か(一考察)

昨日(2021年11月20日)、プロの総合格闘家が3人を相手にストリートファイトルールで戦うというイベントが行われ、本日のニュースでも大きくとりあげられています。その反響の大きさという点で、大成功の興行だったかもしれません。

イベントの詳細は割愛しますが、一つの空手団体の代表として、大変遺憾である思いを吐露させてください。

今回、主役となったプロの総合格闘家の技術、力量、精神力は素晴らしいものです。
それ自体、一流の攻撃力を持った選手であることは否定しません。

また、対戦相手となった3人も、プロのキックボクサー、ケンカ自慢など、腕に覚えのある方だったのでしょう。
大人同士がきちんと契約を交わし、双方の合意のもとで行った勝負ごとなので、何ら法的な問題もないかと思います。

空手という一つの武道団体の視点として、腑に落ちないのはその精神性の部分です。
よく武道の根幹として武士道精神がとりあげられますが、武士(もののふ)の道に由来があると言われます。
簡単にいうと、「武士たちの生き方の理念」が主軸になりますが、その一つに戦場でのマナー、つまり殺し合いの作法があります。

昔、戦の場において、身分が普段から武士であれ、あるいは普段は農民であれ、互いに武器を持って相対する。
お互いに顔も名前も知らない者同士、別に恨みも怒りもないかもしれない者同士で殺しあうわけです。
その場において、一定の「作法」が生まれたことは、想像に難くありません。
(先に名乗りをあげて・・・とか、そういうのではなくて、今回はもっと別の話です)

それは、勝つ者も、負けた者も、双方が相手を「敬う」気持ちを持つことでした。
確かに相手の首を取るなど、物理的には残虐な行為だったでしょう。
しかし、その首は袋や箱に丁寧に入れられて保管され、首実検(戦の後で誰の首なのか確認する)では、首の持ち方や確認の仕方にも、儀式的な作法が存在しました。遺体を埋葬したり、首を相手の家族へ送り返したりするなど、そこには勝った者から負けた者に向けて、許される限りの「敬意」を込めて扱う事実がありました。同じように、負けた側にも相手を称賛し、感謝と礼節を持って応対したことが想像されます。

戦国時代、討ち取った敵の首はどうなる?首級が本物か確認する儀式「首実検」とは | 歴史・文化 - Japaaan

古来、手柄を自慢して喜ぶ様子を「鬼の首をとったよう」などと言いますが、戦国時代の武士たちも戦場で倒した敵の首級を高々と掲げ、手柄を宣言する様子が現代に伝わって…

(首実検の説明はこちらへ。絵とはいえ、刺激が強いかもしれませんので苦手な方はご注意ください)

そしてそれは、過去にも現代にも、「それが美しい」と思える精神性の高さを私たちに持たせてくれました。

改めて武士道や現代武道では、「勝っても負けても相手に敬意を持って接する」ことを大切にします。
オリンピックでも見られたように、競技前の「礼」や競技後の「握手」など、今でも作法としてそれは大切にされ続けています。

今回の企画で一番残念だったのは、そうした「精神的な気高さや美しさ」が感じられない設定であったことでした。
勝負でも試合でもなく、「ただのケンカ」という設定でしたが、それが一般の方にとってどれほど理解し難い、恐怖の対象になるか。
そのために嫌悪の反応を示された方が多かったのかもしれません。

最後に、命にかかわるような大きなケガもなく終わった点に喜びを、4人の選手の勇気と努力に敬意を表します。
ただ、次の機会があるなら、願わくばせめてリングや道場でやってほしいなと、個人的には思います。

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